いったん

HSPやエンパスや敏感という単語で検索して、この記録を読んでくれた人達には、

嬉しい気持ち(感謝してます。ありがとう)と、複雑な気持ちを感じてるのが正直なところ。。

 

最初の頃は、

HSPやエンパスってこんな気持ちよ。こんなこと考えてるの。ここが苦しいのよ。

分かってくれなくてもいいから、放っておいてくれて構わないから、、そういう人がいるっていうことだけは知っておいてほしいな。

きっと、私だけじゃなくて、どこかで誰かが同じように感じているよね、

っていう気持ちを、吐き出したかった。

 

それを記録しているうちに、

どういう訳か、

HSPやエンパス、繊細、敏感、振り回されやすいっていう役割名?のようなものについて

じゃなくて、

私に役割名が付く前の私、の方に、意識がいくようになった。

 

ある人が、

「お化けが、糖尿病になったと騒いでいる」という例え話しをしていたけれど。

 

私が、

私の個人的な問題、あの過去の出来事、あの人とのこと、経験したこと、感じていること、普段思っていること、あの違和感、あの事件、不安、困ってること etc.

何について話したとしても、

それは、

ほんとうは存在していないお化けが、

どうしよう、糖尿病になっちゃった~。どうしてこんなことになったんだろう。

どうしたらいいんだろう。困った。怖いよ。どうしたら治るの?なんで、私だけ・・・!

って騒いでいるのと同じで、

 

糖尿病になったと騒いだり、不安になったりする前に、よく見てみて。

そもそも、糖尿病になる、あなた(お化け)がいませんよ。

あなた、が存在してませんよ。

だから、あなたが、糖尿病になったというのは、あり得ないこと。。

幻想の中のこと・・・

 

私が、敏感すぎて苦しいというのは、

敏感すぎる私、というのを作らない限り、発生しないもの

その敏感すぎる私、というのは、

そもそも敏感になりうる私、というのを作らない限り、発生しないもの

 

ほんとうに、敏感な私って、いるの?

敏感さで苦しんでいる私って、どこにいるの?

私って言っているものが、苦しんでいるの?

 

その私を作る前の、土台となるもの。

私、と言っているもの。

私の本質は、

敏感だったり、HSPだったり、何かに気づいたり、成長したり、苦しんだり、一喜一憂をしている私ではなくて、

私、という感覚が生まれるより前から、ある土台。

その土台というか、大元に意識を合わせてみると、

敏感さも、HSPも、苦しさも、問題だと思っているものも、あれもこれも、そこには存在しないことが分かる。

 

そうしたら、もう、書けなくなってしまった。

 

もう何を書いても嘘みたいな感じがしてきた。

何かを考えたり、思ったり、気づいたり、分かったり、感じたりしたその時点では、そのことは自分にとってはゆるぎない真実、本心、本音、のつもりなんだけど、

少し経つと、すぐに別の何かに上書きされてしまう感じ。

さっき感じてたこと、さっき分かった気がしたことが、もう消えてしまってる。

だからいつも、本当のことを書いてるつもりなのに、本当じゃないような感じ。

 

定まらないものを、定めようとしてるから、無理があるのかな。

固定しよう、分かろう、分析しよう、判断しよう、というマインドの動きも、それに同調しそうになるワタシの動きも、さんざん見てきて、分かった気になっていたけど。

 

こうやって、何かを書き残そうとすると、どうしても、何かを分かった私として、固定させて書くしかなくて。

有りもしないことを書いてるような気分になって、自分で読み返す気も起こらなくて。

 

一度、書くのをやめてみよう。

 

敏感じゃなくなったわけでも、繊細さが消えたわけでも、HSPであることをやめたわけでもなくて。

そうなる前の私。そのすべてが発生する前の私。

私が、私になる前の私。

ずいぶん重たい言い方だけど・・私の本質を知って、それとして生きることを選んだだけ。

そこには、○○としての私が感じていたのとは、違う世界?があって、

物の見方も、感じ方も、捉え方も、言葉の選び方も、何かが変わってきているような感覚はあるけれど・・・

繊細さも、敏感さも、特性、癖、衝動、以前から感じ続けている私っぽさも、ある。

そういうものはあるし、そういうものが出たり引っ込んだりすることにも気づいているけれど、それと同化しない感覚もある。

それ以上説明すると、またおかしくなるので・・・

 

またどこかで書く気持ちになるまで、

いったん、終わり。

 

ワタシの勘違い・・・

頭の中の独り言や、不安、解釈、〇〇べきという思い込み、信念、価値観・・・

そういうものが出てくるたびに、つい、グッとそこへ引っ張られそうになるけれど。

 

ワタシにとって、それよりも、もーっと強い力で引っ張られる感じがするのは、

こっち・・・。

 

あれこれ考え抜いた結果なのだから、これで正しいはず!

〇〇という思いがあるから、その思いのままに行動すれば、いいんだ!

ワタシがそう、判断したんだから、その通りにしよう!

そう思うのだから、そうに違いない!

そう感じているのだから、感じたままに行動すればいい!

・・・この、強ーい信念というか、思い込み。

 

頭の中の声の、内容そのものじゃなくて、

そう感じてるのだから・・・そう思うのだから・・・そのはず、という

「この声はワタシの真実の声。これが正しい(はず)。」という感覚の方を、信じてしまうこと。

 

湧いてくる思考を、

ワタシの本心だとか、ワタシが感じているものだとか、これがワタシの心に従うことなんだ、と信じてしまうことで、

つい、その湧いてきたものの通りに、踊らされてしまう。

反応せずにはいられなくなって、思いや考えや声の言うことを聞いてしまう。

 

何度も何度も、その繰り返し。

もういい加減イヤダ、もう信じないと何度言っても、また波が襲ってくる。

 

だけど。その波からポッと顔を出して、急にまたすっきりと息ができるようになることも、分かってる。

どこかでそれを分かってるのに、波が来た~と言って、おぼれてしまう。

(想像してみると、バカみたいなのに。おぼれてる時は、助かりたくてもがいてしまう)

 

何かの思いがあるからって、その思いの通りに思わなくてもいい。

よく見てみたら、それは、ただの思い、かもしれないんだから。

その思いの主はワタシだって、いうのは、ワタシが勝手に決めつけたこと。

その思いのせいで、苦しんでいるのはワタシだって、感じている限り、ワタシは苦しんでしまう、だけ。

 

波がくる度に、沈んだり浮かんだりしてしまうのは・・・

ワタシが、思いを思って、感情を感じて、波に飲まれておぼれてる当人だ、って思い込んだことから、始まったこと。

 

ワタシはおぼれてる、というのを、前提にしているから、

そこから、逃れようとか、

次の波には、おぼれないようにしようとか、

もっと、上手くかわす方法はないのかとか、

どうしたら、波が来なくなるのか、と対策を考えてしまう。

 

だけど、

もっと前へ巻き戻してみると・・・

そもそも、ちょっと感情が沸き起こったからって、

感情の波におぼれてる と言ったり、

ちょっと思考がぐるぐるし始めたからって、

また思考の波に飲まれてる、と判定してしまうことが、

勘違いなんだ。。。

 

その勘違いは、

思考の声を信じてしまうことで起こる、勘違いだったんだ。

思考が、ほら、もうおぼれてる。

ほら、またぐるぐる考え始めてる。って言うたびに、その声を聞いて、焦って、その状態から抜け出そうとしてしまう、ワタシ。

信じていない時は、その勘違いが見えるのに、

信じてしまっている時は、信じてしまっていることも、信じたことで起きる勘違いにも気づけないなんて。。

 

また急に息が吸えるようになって、

はぁ、なんでおぼれてたんだろう、なんでおぼれてる、って感じてたんだろう。って探ってみると、勘違いをしてたことに気づかされる。

 

どうして、勘違いしてたんだろう?って更に探っていくうち感じたのは、

思考に主導権を持たせてしまう時、ワタシは思考に縛られているという勘違いが、起きやすいんじゃないかって、いうこと。

 

思考に主導権を持たせてしまう時というのは、何かに操られてるみたいに、

思考の言う通りにしか見えなくて、言う通りにしか考えられなくて、ワタシは言われた通りに動かされてしまう。。(しかも、そのことに気づけない)

 

そんな時は、

どんな思いや考えや、解釈が湧いてきても、思考がそう言うなら、、という感じで、疑いもなく、それをワタシのものとして信じてしまう。

 

思考の声が、あたかも正しいかのように聞こえたり、魅力的だったり、そこにこだわりたくなったり、強く引っ張られてしまう時・・・

そういう時は、思考がワタシの主導権を握っていて、

ワタシは思考の言うままに動く存在なんだ、と勘違いをしている時なのかもしれない。

 

ワタシの正体②

ワタシ(個人としてのワタシ)について意識をした時、

ワタシっていう個人が、ほんとうに、ワタシが想像した通り、ワタシの記憶の通り、他人が認識している通りに、ワタシがそうだと信じている通りに、ここに実在しているってことを、証明できない。。

 

目にも見えないし、取り出すこともできないし、ここです!って指をさすこともできないし、一体どこにどんな形状で、どんな風に存在してるかも分からないのに。

ここにワタシという個人が実在してる、って言い切ることができない。

証明することはできないのに、何十年も、ここに、個人としてのワタシがいる、と信じてたのは、なんでなんだろう。

 

みんながそう思ってるから?

そう、教わってきたから?

疑いようもなく、そうだと思い込んでいたから。。?

 

よく、点と点がつながった、という表現を聞くけれど。

 

ワタシという個人が、ここにいるかのように、感じるのは、

何かの点と、他の点が、つながった、と思っているから。

もしくは

点と点が、つながったように、見えるから、なのかもしれない。。。

 

ほんとうは、点と点は、ぜんぜんつながってなくて、つなげる必要?もなくて、

つながって初めて意味を成す、なんてこともなくて。

点と点を見つけたら、線でつなぎたくなったり、つながるはずだと信じるのが、人の思考の単なる癖(パターンの1つ)なんじゃないのかな。

 

あのことと、あの記憶と、あの衝動と、あの反応と、あの性質と、あの思いがあるから。。ほらね、ワタシが、ここにいる。これは、ワタシだ、っていう感覚が作られるだけで。

それが、ワタシという個人が実在しているという証拠にはならなくて、

単に、点と点が、無数にあるだけ・・・

点と点を、架空のペンでつないでみたら、

ワタシという個人の人型?のようなものができるだけで。

だからって、そこに、ワタシって言っている個人が、いるという意味じゃないんだねぇ。。。

 

頭の中で、ワタシが・・ワタシって・・ワタシって・・って声がする時、

ワタシって言っているモノの正体を見ようとすると、何度やっても見つけられない。

見つけられないどころか、何度も見ようとしているうちに、

ただの言葉とか、ただの声とか、音とか、響きとか。。

なんだろう??

ワタシという個人が、「ワタシが・・」って言っているんじゃなくて、

「ワタシが・・」っていう言葉があるだけで、そこには魂がこもってないような・・

誰かが、発した言葉じゃなくて、

ただの、文字列みたいな感覚になってくる。

字幕みたいに流れてはくるけど、だからって、それが、私にとって意味があるっていう訳じゃない、って感じる。

 

文字が流れてきたから、言葉が聞こえてきたから、何かがふとよぎったから、重たさを感じたから、感覚を感じたから、動きがあるから、何かが見えた気がしたから、、、

そんな風に、はっきりとはしない何かを意識した時に、それを点と呼んで、

その点がいくつもいくつも集まった時に、

この点の集合体は、ワタシだ!とか

この点を全部拾って、なぞってみたら、ワタシが出来上がる!って、ことにしたのかも(?)しれない。

 

 

ワタシの正体・・・

いつもこの身体の中に住んでいて、○○という名前の付いた人物のコントローラーを握っている、ワタシがいる、と思っていたけど・・・

 

そうじゃなくて、

ワタシっていうのは、

ここに常駐している誰か、ではなくて、気になった時にだけ出てくる、何か、なのかなぁって気がする。

 

何かが気になったり、何かに反応したくなったり、感情が動いたり、モノ申したくなったり、判断したくなったり、守りたくなったり、主張したくなったり、こだわりたくなったりする、その動きみたいなもの。

その動きみたいなものが、個人のワタシっていうものの正体なんじゃないのかな。

 

個人のワタシっていうのがどこにいるのか、探そうとしても、見つからないのだけど。

何かに意識が向いた時、注意を向けた時、ふと気になった時に、

なんとなく胸のあたりが重たく感じる時があって。

その重たくなっているのは、何なんだろう??って探っていたら、

上に書いたみたいに、何かが気になったり、反応したくなったり、言いたくなったり、判断したくなった時に、その重たさを感じているような気がしたから。

 

もしかしたら、この重たさとか、衝動とか、動きとか・・

そういう何とか言葉にはできるけれど、目で見て確認することはできないようなものが、個人のワタシの正体なんじゃないかって、感じるようになった。

 

個人のワタシの正体が、動き、なんだとしたら、

ワタシっていう個人がいるわけじゃない、っていうこと。

ワタシというものを、個人だと捉えていたことが、勘違いだったんだ、という感じ。

 

これ以上どんな風に書いていいか分からないけど・・

 

数日前、

何かがとってもはっきりと、分かった感覚があった。

何が分かったのか、ということが、説明できなくて、もどかしいけど。

そこから数日の間は、個人のワタシがどうのこうの、思考がどうした、なんていうことを、考えることもなくなるくらいだった。

何かが、ワタシにとって代わったような、、説明しづらいけど、とにかく何か大きな変化を感じてた。

 

その変化を体感している時は、

個人のワタシとして抱えていた悩みとか、気になることとか、不安とか心配とか、、

そういうものが入ってくる隙がないような感じで、

気にならない、というよりも、

気にならない状態が普通、だと感じるくらいに、そこに浸ってた。。。

 

でも、数日経って、

何がきっかけか分からないけれど、

突然、個人のワタシっていう感覚が、私の中に戻ってきた。。

そこからは、数日の間、個人のワタシの感覚の中で過ごすしかなくて、それがものすごく辛くて、苦しかった。。

些細なことが恐怖になったり、人の言動がいちいち気になったり、

気にしないようにすればするほど、逃げられなくなって、

もがいても意味がないって分かっているのに、もがいてしまって、

その状態が数日間続いたから、辛かった。。。

 

もう、あの穏やかな状態に戻れないのかなって考えれば考えるほど、更に苦しくなって、抵抗し続けてしまった。

それからまた数日経って、

ふわっとまた静かな感じに戻った。。。

 

あの静かな感じ、気にならない感じ、に戻ったのは、すぐに分かった。

 

出来事とか、外の世界から受ける影響が一気に少なくなって、

湧いてくる思考に捉われることも減って、

個人のワタシとしての動きみたいなものが、出て来なくても大丈夫、という状態になるから、不思議。

 

もっと不思議なのは、

なぜかその穏やかで静かで、ワタシじゃないみたいな感覚と一つになっている(?)時は、その感覚が、平常だって、感じること。

 

何かの思いを信じたり、誰かの教えに基づいて行動をしたり、自分を律したり、何かをコントロールすることで保たれている穏やかさ、じゃなくて、

それがワタシの努力とは関係なく起きるから、なんとも言えない感じ。。

 

気になるワタシ

これまで「これが私だ」と感じてきたワタシというのは、個人のワタシ、だと思ってたもの。

それは、気になるワタシ、と表現するのが、今の感覚に一番近いかもしれない。

 

気になるワタシは、ワタシのアンテナに引っかかってくるあらゆることが、気になっていた・・・

気になるものを、

良い 悪い と裁いたり、判断したり、

好き 嫌い と言って区別したり、

こうしよう、こっちの方がいい、あれはダメ、こうでないと、とこだわったり、

〇〇すべき、〇〇が正しい、と主張したり

何かの意見を持ったり、信じたり

何かの思い入れを持って、行動をしたり、誰かを批判したり、自分を責めたり、何かを選んだり。

状況や意味付けによって翻弄されて、良かった、悪かったと喜んだり嘆いたり、するワタシ。

 

その気になるワタシは、

個人としての思いや、感情や、感覚があるから、物事がワタシにどう関係してくるかが、どうしても気になる。

ワタシをどんな気分にするか、ワタシにどんな利益があるか、ワタシがどこへ導かれるか、ワタシにどんな結果がもたらされるか、ワタシがどんなワタシになるか。。。

 

何であっても「ワタシにとって、どんな意味があるか」が、いつでもすごーく重要で、物事を判断する時の基準になっていた気がする。

 

何気なーく考えていることも、繰り返し考えていることも、

よくよく見てみたら、

ワタシ、にとっての意味を考えてる。

ワタシと物事や出来事が、直結しているような感じがしてた。。

 

ワタシに対してとっても敏感で、ワタシの気分に左右されて、ワタシの置かれている状況がいつも気になって、、。

 

あ、今気づいたけれど。

ワタシ、に振り回されていたのかも。

 

文字にするとおかしいけど・・・

そうだ。。ワタシって、ワタシに振り回されてたんだ。。

誰かじゃなくて、何かの状況とか結果とか出来事じゃなくて、

ワタシの機嫌、気分、感想、解釈、受け止め方、、、、

ワタシの反応に、振り回されてきたんだ。

 

そうかぁ。。

このワタシ、っていうのは、よく言われるマインドとかエゴとか自我のことなんだ。

私の本質じゃなくて、自我と呼ばれるものの方。

(気になるワタシというのが、自我なら、、ワタシのことしか考えてないのは、当たり前?)

 

その自我と呼ばれるものを、私自身だと勘違いしていたことが、誤解の始まりなんだ。

 

自我の声を、私の声だと勘違いして

自我のやりたがることを、私のやりたいことだと勘違いして

自我の思いを、私が思っていることだと勘違いして

 

そうやって、私を自我に閉じ込めて、私を自我に限定してしまうことで、

私=自我になってしまっていたこと。

私と気になるワタシが同化してしまうこと・・・それが、苦しくなる原因だった。

 

そのことを教えられてからは、

その気になるワタシを、意識するようになった。

 

気になるワタシが、気にしている何か(見ている物、考えている内容、思っている事柄、起きている出来事)ではなくて、

気になるワタシが、何かを気にしている様子を、見てみるような感じで。

 

気になるワタシって、どんなタイミングで、どんな条件の元で、どんな状況になると、

気にし始めるんだろう・・・

なんらかの法則とか、パターンがあるようにも、見えるし、

癖みたいに、反射的に飛び出て来るようにも、見える。

  

抑えようとしても抑えられなくて、気づいたら、気になるワタシが活発に動き始める。。

気になるワタシが出てくると、途端に、物事にワタシにとっての意味が付く。

 

そんなことを意識していると、

時々、

ワタシが、ワタシって、ワタシの、ワタシは・・・って

いつもワタシ~って言っているものが、静かになっているような感覚になる時がある。

 

何かを見ても、前みたいに、いちいちワタシにとっての意味と結び付けて、すぐに批判や何かの態度に変えて、即座に反応する、

という、ワタシの衝動みたいなものが、おさまっているというか、気にしてないっていうか。

 

私が、気になるワタシの声や衝動と同化したり、その声に翻弄されたりしないで、

ただ見ているようになると、

気になるワタシっていうのは、段々と輪郭を失ってきて、、

ほんとうは実体がないものなんだっていうことを、実感できるようになってくるみたい。

 

感覚としてのワタシ

〇〇という名前の付いた、私。

この、私。個人としての、私という人物。

 

その個人としての私、っていうのは、一体どの部分のことなんだろう??

身体丸ごとが、私?

身体の中にいる、何か目に見えない塊が、私?

頭の中にいて、あれこれ考えているのが、私?

 

これまでずっと、何の疑いも持たないで、深く考えることもなく、

この身体とその中身を総称して?個人の私、ということにしてきた気がする。

 

この私、から発生しているように感じるもの。。

たとえば、しゃべる声、頭の中に浮かんでくる考え、思い、行動、反応etc.

そういうものの、「発生源としての私」とか、この身体に住んでいる「主(ぬし)としての私」というのが、いるような感じは、ある。

この私が歩んできた人生とか、個人的な思いとか、個人的な信念、個人としての判断というものも、はっきりとあるような感じが、する。

 

でも、探そうとしても、個人の私、という人を見つけて、これが私ですとか、ここからここまでが私です、と言えないし、

身体の中から引っ張り出して、これが、個人としての私です、って誰かに見せることもできなくて。

・・・やっぱり、個人の私っていうのは形がなくて、ここに実在していると証明することができないもののような感じが、する。

 

個人としての私、に実体がないのなら、

これまで何を、個人の私、だと思ってたのかな・・・って振り返ってみると、

それは、個人の私としての感覚、だったんじゃないのかな。

 

分かりにくいから、

とりあえず、個人の私というのを、ワタシ、と片仮名で書いてみると。

 

このワタシ、という言葉を使う時に、ワタシ、って言ってるのは、誰なんだろう。

ワタシって言っている個人が、いるような感じはするけど。

やっぱり、ワタシ、と言っているのが、どこなのか、誰なのかが特定できない。

 

このワタシ、って、何のことなんだろう。

個人としてのワタシ、が本当はいないのなら、じゃあ、ワタシって言ってるのは誰なんだろう、って。

この1年くらい、ずっとそんなようなことを繰り返し考えたり、自分の中を探ってみたり、色々な人の言葉に触れたりしているうちに、

この身体の中で、何かがワタシ、って言っていて、

そのワタシという言葉を前提に、ワタシという人物像が作られているような感じが、してきた。

 

ワタシがいるんじゃなくて、

「ワタシがいる、と思っている」だけ。

 

ワタシという個人がいる、という感覚があるから、そこを起点に、ワタシという人物がいるような感じがして、ワタシという個人がいるように思い込んでいるだけで。。

本当は、ワタシという人物像(イメージ)があるだけ。

 

その人物像としてのワタシを本物っぽくして、実体があるかのように息を吹き込んでいるのが、ワタシがいる、という感覚。

 

この、ワタシがいる、という感覚がすべての大前提になっていて、

ワタシと言う時に、個人のワタシ、としての役割が勝手に発動してくる。

 

ワタシと言う時に発動してくる、個人としてのワタシの感覚を、

これまでは、ほんとうの私なんだと、思っていた。そう考えるのが当たり前だったから。

 

でも、徐々に、

個人としてのワタシって、いうのは、形のある個人じゃなくて、あくまでも、感覚なんだなぁっていう感じがしてきた。

 

このことについては、色々な人が書いていて、調べれば本もサイトもたくさん出てくる。

宗教だと言ったり、スピリチュアルだと言ったり、○○心理学、自己探求とか、禅とか、、、色んなくくりの中で、語られてるみたいだけど。

 

私の場合は、常に何かの悩みに引きずられて苦しいとか、何かから抜けられないという感覚が常に付きまとっていたこと。何か、いつも人と違う、という違和感があったこと。

イヤだと思いながらも、同じパターンばかり繰り返していたこと。

 

それと、今気づいたけれど、

いつも何かについて不安を感じていたり、いつも次に来る何か、から自分を守らなくちゃいけないような怖さを感じていたこと、何かを逃れてもまた次の何かに襲われそうになっていること。

そういう状況や怖さに抗えない私がいる、と思っていることに気づいたのが、自己探求をするきっかけになったんだと思う。

 

それが何に行きつくのか、全然分からないまま、

とにかく目に付いたものを読んで、見て、聞いて、ワタシに当てはめてみて。。

気になることとか、出来そうなことは実際に試しながら、このワタシって何だろう、って考えるようになった。

 

もし個人としてのワタシ、というのは、ただの感覚、ただの思い、個人としての私がいる、という思いがあるだけ・・・

だとしたら、

ワタシが苦しいと感じたり、違和感を感じたり、逃れられない、怖い、不安だと思っているものは、

その、ワタシという感覚が感じているもの。

ワタシという感覚が、感じているもの。

そのワタシという感覚自体が、実体のないもので、思考の中にしかないもの。。。

 

そんなことを、ずっと意識しながら生活をしていたら、

ある時から、

ワタシ、っていうのが、

ほんとうの私の中に現れる、感覚の1つのように感じられるようになった。

 

うまく言えないけど。

思いや考えや信念と同じように、

ワタシというのも、感覚の1つで、

ワタシというのがいる、という思いの上に成り立っている、感覚という感じ。。。

 

ワタシという個人が、この身体の主なんだと信じていたけれど。

ワタシというのが、感覚の1つとか、思いの1つのように感じられるようになると、

この身体の主としての感覚が、薄くなってくる。

 

何かに苦しんだり、何かを恐れたり、行動をしたり、強い思いを持ったり、主張をしたり、主としてすべての中心にいると、思っていた、このワタシは、

ほんとうは、いなくて。

すべての中心にいる感じがするこのワタシは、

すべての中心にいる感じ、があるだけ。

感じはあるけど、ワタシという個人がいるわけじゃないんだ。。。

 

反対に言うと

ワタシという個人がいるという思いのせいで、ワタシという実体がある、と思い込んでいただけで。

ワタシという個人がいる、というのが、ただの感覚なんだとすると、

感覚としてのワタシはいる。。。ような感じがするけど。

個人としてのワタシは、いないんだ・・・。

という感じになってくる。

 

だとしたら、

ワタシと言ってるのは、個人としてのワタシじゃなくて、

個人としてのワタシがいる、という感覚の方。

 

その感覚のことを、ワタシと呼んでいたんだなぁ、っていうこと。

 

苦しいと言っているのも、悩みから逃れられないと言っているのも、あれがイヤだとか、

あの人がどうだと、言い続けてるのも、その感覚としてのワタシだったんだ。。

もっと○○したいとか、○○だったらいいのにとか、何かを悔んだり、うらやましがったり、喜んだり、落ち込んだりしているのも、感覚としてのワタシ。。

何かの役に立ちたいとか、生きる目的とか、夢を持ったり、成長したり、何かをあきらめたり、生き方を模索しているのも、感覚としてのワタシ。。

 

感覚としてのワタシが生まれると、個人としてのワタシが発動して、

個人として生きる、ということが起きる・・・

 

その個人として生きる、というのは、ほんとうの私(の立ち位置)じゃないんだっていうこと。

今は、まだそれを、感覚のようにしか感じられなくて、言葉にすることが難しいけど。

 

感覚としてのワタシの苦しさは、ほんとうの私の苦しさじゃない・・・

ワタシが長年してきた勘違いに気づいて、ほんとうの私を知ることが、

長年苦しんできたワタシを解放すること?になるんじゃないかな、って感じてる。

大事に守っているもの

私の中で、、、大事に守っているものって何だろう。

「それが無かったら、私らしくなくなっちゃう」

「そうじゃない私、は想像できない」と感じさせるもの。

それくらいに、私、と一体化してるもの。

 

たとえば、

私は、この間書いたような、被害者意識や正しいと感じることを、すごーく大事にしてきたと思う。

最近になって、そのことをはっきりと気づかされた。

 

私の中で、正義感が常に一番前に立っていて、全体の門番をしていたような感じ。

その正義感で、いつも自分のことも、他人のことも裁いて、責めたり、非難したり、モノサシにしてきた。

正しいものは入ってきていいけど、間違っているものは入れない!と言って、

何でも正しいか間違っているかで、判断していた。

 

だけど、

その正義感自体が、どこから出てきて、どうして私にとってそこまで大事なのか?については、意識をしたこともなかった。

 

私、と正義感が、くっ付きすぎて、一体化してたから。(私から切り離せる、ということに気づかなかった・・・)

 

でも、今は、

私が、大事に守っている、と思っているものは、

私、をほんとうの私から、遠ざけるものだったのかもしれない、って感じる。

 

私が、何かを大事に守れば守るほど、

その大事な何かをしっかり握って、離せなくなればなるほど、

それが無いと、生きていけないとか、私じゃなくなるとか、価値がない、意味が無い、と感じれば感じるほど、

ほんとうの私を見失ってしまうんだってこと。。。

しかも、

大事に守っていたはずのものに、実は守られてた?ということにも、気づいた。

 

いつも正しくあれば、大丈夫、とか

正義感を振りかざしていれば、誰にも文句を言われないだろう、とか

何があっても、私は正しいと、強く思い込むことで、

私は、正義感に守られてるような感覚になる。

 

この中にいれば、私は安心だって、思えるから。

 

人によって、それがプライドだったり、弱さだったり、責任感とか、好奇心とか、上昇志向とか、謙虚さ、賢さ、とか。

 

「○○な私」の、○○に入るあらゆる言葉。。。

それが無いと人前に出られないとか、自分じゃなくなる、生きてる意味がない、と感じさせるくらい、大事なもの。

もしくは、こだわってることに気づかないくらいに、無意識に一体化してるもの。

それさえあれば大丈夫、と満足させてくれたり、安心させてくれるもの。

 大事だと言うまでもないくらいに、すべての大前提、となってるもの。

 

・・・でも、ほんとう~は、

それが無くても、大丈夫だったんじゃないのかな。

 

それが大事なものだと思い込んでいると、そのことが見えなくなってしまうけど。

少し離れて、それと一体化してない場所から見ることができると、

それは、ほんとうの私じゃないんだって、分かるような感じ。

 

「それが大事なんだ」と、思っていた、だけ。

 

もっと言うと、私が、「それが大事なんだ」と、思っていたんじゃなくて、

『「それが大事なんだ」という思い』が、あっただけ。